1300年以上の歴史と伝統!川面を照らす篝火と鵜匠の技【ぎふ長良川の鵜飼】

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写真提供:岐阜県観光連盟
戦国のロマンを感じさせる金華山と山頂にそびえる岐阜城を背景に、名水100選に選定されている清流、長良川で「ぎふ長良川の鵜飼」は行われています。周囲が闇に包まれる中、赤々と燃える篝火を川面に映し、鵜匠と鵜が一体となって繰り広げる古典漁法「鵜飼」は、はるか昔にタイムスリップしたような非日常の雰囲気を味わうことができます。

鵜飼とは?

「鵜飼」とは、鵜匠が水鳥の「鵜」を手縄で操って川魚を捕える伝統漁法です。日本での鵜飼の起源は、稲作とともに中国から伝承したとする説、日本と中国で別個に発生したとする説など諸説ありますが、各地の古墳から鵜飼を表現しているとみられる埴輪が出土しているため、少なくとも古墳時代には鵜飼が行われていた可能性があるといわれています。文献では、7世紀初めに中国の「隋書」「東夷伝倭国条」や、日本では8世紀に成立した「古事記」「日本書紀」にも鵜飼に関する記述が見られるそうです。

ぎふ長良川の鵜飼の歴史

美濃国(現在の岐阜県)では、7世紀頃から鵜飼が行われていたと言われています。正倉院に納められている文書の内、美濃国と伝えられる702(大宝2)年の戸籍に、「鵜養部目都良売(うかいべのめづらめ)」という記述があります。この人物は、鵜飼を生業としていた集団の出身と推定されており、長良川鵜飼が1300年以上の歴史を持つとする由来となっています。

鵜飼を見せる(魅せる)ことをおもてなしの手法として最初に取り入れたのが、織田信長です。信長の嫡男・信忠と武田信玄の娘・松姫の婚約に伴い、武田信玄の使者である秋山伯耆守が祝儀の贈り物を届けに岐阜の信長のもとを訪ねた際、信長は鵜飼観覧に招待しました。この時、信長は鵜匠を集めて鵜飼を見せるように命じ、秋山伯耆守の乗る船を信長が乗る船と同様にしつらえたり、鵜飼観覧後も捕れた鮎を信長自ら見て、甲府へ届けさせる鮎を選んだりする等、最大限のおもてなしをしたそうです。
その後も、大坂夏の陣からの帰りに岐阜に滞在した徳川家康・秀忠父子が鵜飼を観覧したと伝えられています。その際、食した鮎鮨を気に入ったのか、同年から将軍家への鮎鮨献上が始まりました。同時に、鵜匠には川の自由な航行や、冬に鵜の餌を求めて餌飼(えがい)をすることが認められるなど、さまざまな特権が与えられました。正保3(1646)年、初代尾張藩主徳川義直の鵜飼上覧を皮切りに、歴代尾張藩主による長良川鵜飼の上覧が慣例とされてきました。また、貞享5(1688)年6月、松尾芭蕉が岐阜を訪れた際に、弟子とともに鵜飼を観覧し、その時に詠んだ「おもしろうて やがて悲しき 鵜舟かな」という句があります。
鵜飼は現在、日本の数カ所で行われていますが、岐阜県の長良川で行われる鵜飼は「御料鵜飼」を行っている日本唯一の場所です。御料鵜飼とは、禁漁区である「御料場」で鵜匠が皇室に納める鮎を捕る鵜飼のことで、長良川の鵜匠は宮内庁式部職鵜匠という役職が与えられ、代々その技が受け継がれています。ぎふ長良川の鵜飼は、平成27年3月に「長良川の鵜飼漁の技術」として国の重要無形民俗文化財に指定されました。農林水産業に関わる技術の指定は日本初とのこと。鵜匠が鵜をはげます「ホウホウ」という掛け声や舟べりをたたく音が「日本の音風景百選」にも選ばれています。
踊り船
総がらみ
鵜飼は川岸から自由に見学することもできますが、より近くで鵜匠の技や魚を捕らえる鵜を見るなら鵜飼観覧船に乗船することをおすすめします。鵜飼が始まる前に鵜匠や船頭の方の説明を聞くことができますし、篝火のパチパチと燃える音を聞きながら間近で鵜が巧みに水面を泳ぎ鮎を捕まえる様子を見られる機会なんてなかなかないでしょう。鵜飼が始まるまで、停泊している観覧船のまわりを踊り船が周っています。踊り船には浴衣姿の踊り子さんが「長良川艶歌」や「長良川音頭」「信長音頭」などを淑やかに踊って鵜飼ムードを盛り上げてくれます。鵜飼のクライマックスは「総がらみ」といって、鵜舟6艘が横一列に並んで一斉に鮎を追い込む様は壮観です。

ぎふ長良川の鵜飼は毎年5月11日~10月15日までの期間中、中秋の名月と増水時を除いて毎夜行われます。特に7月中旬から9月中旬までは大変混み合う時期のため、事前に予約しておいた方が安心です。鵜飼のスケジュールや予約方法について等、詳しくは公式ホームページでご確認ください。
【ぎふ長良川の鵜飼】公式ホームページはこちらから
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